昔こんなことがありました.わたしがまだ中学校に通っているときのこと.
部活の朝練に出るために早朝に家を出たわたしは,犬の散歩に行く父と一緒になりました.少し先に出たわたしが赤信号を待っていると,犬を連れた父に追いつかれたのです.
時間は早朝ですので,車は来ていませんでした.父は,赤信号の道を横断して先に歩いていきました.わたしは,信号が変わるまで待ちました.
その夜,父が私に言いました「お前は,協調性や気遣いがない.今日の朝も,せっかく会ったのに,お前は車も来ないのに赤信号を待って,なにをやってんだ」と.わたしも言い返しました「赤信号で待つのは当然じゃない?僕の方が正しいやろ.笑われるで.制服着てて赤信号で渡れというのはどうなん?」と.父は,「社会とはそんなもんじゃないぞ」とややあきれ口調で言ったものでした.
そのことが,今もわたしの脳裏に残っています.わたしの中で,ふたつの思いが対立をしつづけているのです.
信念対立研究の第一人者である,京極真先生は著書『医療関係者のための信念対立解明アプローチ―コミュニケーションスキル入門』において,信念対立を「人々の疑義の余地なき確信が通じない状態で生じる状態」(京極,2011)と定義されています.そして,『医療関係者のためのトラブル対応術 信念対立解明アプローチ』では,増田典子さんの研究(増田,2013)を紹介し「信念対立に解決のみで対処しようとすると,かえって信念対立が強化される事態」(京極,2014)が起こることが指摘されています.すなわち「信念対立を解決しようとすることが,次の信念対立を生じさせる悪循環につながている」のです.
先に紹介した増田さんの研究は,終末期の作業療法士の信念対立に関する研究でした.終末期の臨床で働く作業療法士にインタビューし質的研究法によって分析した結果,「自己内におこる信念対立」の存在を明らかにしています.
これは,とても画期的で,面白い発見であると感じました.「信念対立」という語感やその成立に至る過程,背景から,信念対立とは,「対立する2者,またはそれ以上の主体(集団も含む)の間に起こる価値や正しさの確信を巡る争い」であるとイメージしていました.すなわち,「自己外で起こる」譲れない思いによる対立であるとイメージしていたのでした.しかし,信念対立の悪循環に陥っている者は,自己内の信念対立を抱えているのだということが分かったのです.
さて,冒頭のわたしの問題に帰ります.わたしは,今,自己内の信念対立を抱えています.中学生のあの日,あの赤信号を「渡るべきだった」と感じる私自身と,「渡るべきでなかった」と考える私自身がいる.わたしは,自己内の信念対立を抱えています.そう,解決しようと思考に思考を重ね,悪循環に至った結果です.
前置きが長くなりましたが,ここからが重要なところです.では,自己内の信念に対してどのように対処したらいいのか?という問題についてです.
信念対立の解消に対しては,信念対立解明アプローチ(京極,2011)という方法論が確立されています.信念対立解明アプローチでは,信念対立を解決するのではなく,解明することで問題を問題で無くしてしまうことで,信念対立に対処します.これは,とても有効な方法で,様々な実績も報告されています.
そこで,今回のテーマである自己内の信念対立に信念対立解明アプローチはつかえるのか?という問題です.
結論をいうと,わたしは利用できると考えています.
今回のわたしのケースを考えると,わたしの現在抱える自己内の信念対立は,「父」と「わたし(○○中学校の生徒)を見ている近所のひと」の信念対立の取り込みと言えます.いわば,代理戦争をしている状態とも言えるのではないでしょうか.そうような文脈から構造を見出すと信念対立解明アプローチは適応であると考えます.
とはいえ,感情的についていけないこともあります.そんなときはどうしたらいいのか?
わたしは,精神障害者のような自己内に信念対立を抱える対象者に対して,信念対立解明アプローチを用いた介入を実施してきました.信念対立解明アプローチは,精神障害者に対しても有効な介入方法になることを経験していますが,しかし,起こっている現象を頭では理解していても,こころ(感情がついてこない)ことが多くあります.その様な事に対して,信念対立解明アプローチの解明態度に「マインドフルネス」を用いて方法的に補完することを提案しました(織田,2013).
わたしの信念対立は,わたしのこだわりに原因があるのかもしれません.
父から指摘されたときに「そうやね」と言えればよかったのかもしれません.確かに「それもそうだな」と思ったのも事実なのですから・・・.それでも,何だか言われたことが嫌だったし,なにより「おやじと一緒に通学しているところなんて・・・」という気持ちがあったのも事実です.わたしは,それに蓋をしたのかもしれません.だから,父の指摘に反応したのでしょう.
もっと,自然体でいられたらいいのでしょう.一瞬一瞬,あるがままに,大きな流れの中で自然体でいること.そんなわたしでありたいと思いました.
自己内の信念対立
返信削除勉強不足ですみません。初めて知りました。
鬱病の母は、自分の身体に次々と発症する病気に対し将来に悲観し、また介護をすることになる私達家族に異常なまでの呵責の念があり、希死念慮の思いが強くなっていました。
しかし、何度となく自殺未遂で終わってしまうということは、少なからず生への執着が捨てきれていないという思いから来るのかなと思っています。
(希死念慮以外は精神状態が極めて健常に近かったため)
もう少し早く、この言葉を聞いていればよかった。
先日、母は自殺を完遂しました。
母が思いを遂げたことは、母にとっては最良の結果であり、それを止められなかった、まだ母に生きていて欲しかったというのは私達家族のエゴでもあり、ここでもまた葛藤という自己内の信念対立が生まれるのかも知れません。
母の死により、精神科領域の勉強をする必要も無くなりましたので(笑)こちらへ伺うことも無いかも知れませんが、
この先の先生のご活躍をお祈りしております。
ありがとうございました。