プロセスを大切にする理由

 絶賛,長期教員研修中の織田です.この研修では,様々な刺激をいただいております.習い,考え,語り,プロセスを通し深まっていく学びを体験しています.今回は,そんな中で考えたことの一端をお話しします.

 ある日の研修帰り,播磨坂を下りながら,ふと一歩一歩をいつもと違う深く感じる体験をしました.地面から,足の裏が押し返され,その力が身体を通して脳の裏側に抜けていく感じ.それが,なんだか新鮮で不思議な感覚でした.その時「私はプロセスを生きている」この言葉が自然と浮かび上がってきたのです.これは,どういうことなんだろう.それをそのままおいておきながら,フワフワと考えました.


 ここで「わたしとは何か?」という問いを立ててみたいと思います.この問いは,私の本質,または確信条件を明らかにすることで解決される問いだと考えられるでしょう.これについて考えてみましょう.

 私が私であるということはどういうことでしょうか?ここで,思考実験をしてみたいと思います.たとえば,ここに1つのぬいぐるみがあったとします.

 ①ある時,こどもが左の腕をつかんで振り回し,ボロボロになってしまいました.そこで,母親(父親:大人)がそのぬいぐるみの左腕を別の材料で作り直し緊急手術,左腕の部分に取りつけました.
 ②またある時,今度は,右腕の部分がボロボロになってしまいました.そこで,同じように母親(父親:大人)が取りつけました.
 ③またある時には,今度は左足がボロボロになりました.そこで,再び同じように左足を取り換えました.
 ④そのようなことが繰り返され,右足,頭,体幹と取り換えられました.
 ⑤今では,すべての部分が新しいものに取り換えられています.それで,ぬいぐるみは出来ています.

【問い】今,目の前にある,このぬいぐるみは元のぬいぐるみと同じものと言えるでしょうか?


 どうでしょう?


 要素還元主義的に考えるとすべてのパーツが入れ替わってしまったそのぬいぐるみは,元のぬいぐるみと違うものであるという感じがするでしょう.一貫性の問題がそこに感じられるのではないでしょうか.
 では,「ヌイグルミ」を「わたし」に置き換えてみましょう.
 読者の皆様はご存知の通り,私達の体は細胞の集まりによってつくられています.その細胞は,新陳代謝を繰り返し,一定期間で新しいものに入れ替わるサイクルを繰り返しています.私達の体はこうして維持されています.したがって,私達の体は,生きているうちにすべての細胞が生まれた瞬間とは入れ替わっているのです.だとすると,私は別の人間になってしまうのでしょうか?これに関しては,「否」と感じるでしょう.細胞が入れ替わっても,私は私だと感じるだろうと思います.


 では,なにがそう思わせる根拠になるのでしょうか?


 ここまで考えてきてわかることは,要素還元主義の限界です.もちろん,その考え方,視点が重要な場面・状況があることは,これまでの科学的視点の重要性からも明らかです.要素還元主義の視点は,科学の発展の基盤となり,それを下支えしてきました.しかし,それだけで本質を言い当てることができるのか?というと限界があると言わざるおえません.では,何が私が私だと感じるその感覚の下支えになるのでしょうか?

 先のぬいぐるみの例に戻ってみましょう.わたしたちが,そのぬいぐるみを違うものになってしまったと思いながらも,どこか同じぬいぐるみかも知れないと思えるのは,なぜでしょうか?

 これは,わたしたちが,ぬいぐるみの変遷,移り変わりを知っている(観察している)からでしょう.1つのぬいぐるみが移り変わっているのを知っている,この移り変わりという時間軸の中で変遷する過程(プロセス)こそが私の本質であると言えるのではないでしょうか.ここでいうプロセスとは,情報に集約されるともいえるのかも知れません.まあ,それは別の機会の議論にするとして,私が私であることの確信はプロセスにあると言えるのではないでしょうか.
 
 このように,プロセスに注目することは本質を知るうえで重要となるでしょう.何か一部分の結果,その時の状況だけに注目したり,その瞬間の(部分的)現象,パーツにのみ目を向けることは,全体を捉えるという意味で言えば危険であると言えるのかも知れません.そう考えられるでしょう.

 少し荒い考察になりましたが,長くなりましたので今回はここまで.また機会がありましたら,別の視点から考察したいと思います,

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