痛みを生きるということ

昨日,一昨日と,日本作業療法士会の重点課題研修「がんに対する作業療法研修会」の運営を中四国エリアのエリア長として行ってきました.また,11月26日には,高知痛みの研究会でお話しさせていただく機会をいただきました.その資料作りの中で,書いてみたくなりました.


最近は,疲れてくると「からだ」にきます・・・.だるさ,ハリ,コリ,ハレ,かぶれ,そして何より痛みです.関節や皮膚のトラブルなどいろいろなところが痛みますが,なにより歯が痛みます.ツーンと痛かったり,ギシギシと痛かったり,ズンズンしたり・・・.痛みは,どんどんわたしを侵襲してきます.

「うぅ,イタ~イ!!」(*_*×;)

そんなときは,痛み止めを飲んで,痛みを鎮めたり,無くしたりします.また,お笑いを見たり,好きなことをして気を紛らわすことで,痛みに気づかないようにして,問題をなきものにしようとします.もしくは,もっと強い刺激で,痛みを紛らわそうとします.そうやって誤魔化していくのです.

わたしは,このように痛みと対峙して,痛みをコントロールしようとし,痛みをなくすために努力します.もしくは,無視して,存在をなくそうとします.しかし,そんな時,痛みはまるで人格を持ったように,自分の全実存をかけてその威力を発揮するように感じます.

痛みとの闘い.それを,どうやりきるのか?どう,痛みを取るのか?痛みをなくす方法は?
痛みの存在をそぐために,最新の医学の知見に最良の方法をあたり,スキルを増やし,テクニックを磨き,全身全霊をかけるようになります.

マッサージにアイシング,鎮痛剤の服用に,湿布に,モビライゼーションに,ストレッチにテーピングに,サプリメントに,アスレチックトレーニングに,鍼に,灸に,電気に,ホッとパックに,超音波に・・・.終わりなき闘いの日々が始まります.

「痛みを取り除けるセラピストになりたい」そう思い,とにかく技術を磨きたい.最高のテクニックで,今までにない方法で,無敵のセラピストを目指していた時に,そのひとと出会いました.



ある日の午前中のことでした.そのひとは言いました.

「こんどは,もうダメなのはわかっている.自分のからだやもん.わかるがよ.だるいし,ふらつくし,なんか肝臓のあたりが痛むがよね・・・.キューと締め付けられる感じというか,ジクジク痛いというか・・・」

自分のからだに語りかけるように,ポツリ,ポツリと一言,一言を,確かめながら,小さな,それでいて芯がある声で,わたしとそのひとのあいだに言葉をおいていったのでした.

「・・・.その痛みが・・・.その,痛みが・・・,うーん,その痛みが,少しでも,そうだなぁ・・・.少しでも,その痛みが,うーん.その痛みが,楽になるといいですね」

それが,わたしの本心でした.「誰もが,痛みはないほうがいいに違いない!!」その時のわたしには,それしか,見えていませんでした.そんなことを疑ったことすらありませんでした.
でも,「本当に,それでいいのか?それを望んでいるのか?」彼女の姿に,わたしは自分の考えを初めて疑いました.

「ありがとう.そうやね.痛みが取れるといいね.でも,無理やと思う.今回はね.諦めているわけじゃなあいけどね.わかるんよ.自分のからだやきね.それにね,この痛みを,なんていうか,そのまま感じていると,不思議やね.この痛みを感じていると,生きてる,っていう実感があるんよ」

そのひとは,真っ直ぐに私の目を見て,そう語りかけました.まるで,哲学者が弟子に真理を語りかけるように・・・.そうして,彼女は,小さく息を吐くと,優しく微笑むのでした.



痛みはないに越したことはないことは,きっとそうなのでしょう.それでも,痛みすら,自分の一部と抱えることができたなら,きっとわたしは,わたしの「生きる」を取り戻すことができるのでしょう.痛みが実存をかけて訴えるそれをも受け入れることができたなら,わたしはわたしらしく,実存的にいられるのでしょう.今は亡き,そのひとに教えていただいたこと.わが師ともいえる,その教えを胸に今を生きていきたいものです.

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