「彼女には、どんな景色が見えているのだろうか?」
わたしと彼女の差は、一向に縮まらない。後から来たひとが、わたしの横をすり抜けていく。一瞬の時間の重なりの後、足早に遠ざかっていっていた。
そんな時、わたしは、わたしの足元にこころをおいてみた。足が地面につくと、フワッと一瞬地面に足が吸い込まれる。そして、柔らかくおしかえして、わたしを支えてくれていた。わたしの周りから、音が奪われ、ひとがきえ、時が止まったような感覚におそわれた。彼女は、やっぱりひとりだった。そして、やはり、そろりそろりと歩いていた。
わたしの空間には、彼女とわたしの2人になっていた。そして、わたしも彼女も歩いていた。そんな時、彼女はゆったりと振り向いて、小さく会釈をした。
時間は平等だとよくいわれるが、時間は決して絶対ではないと思う。わたしの動き、在り方と、相手の動き、在り方により変化する相対的なもの。
例えば、動いているわたしには時間は短く感じ、とどまっているひとには、時間は長く感謝感じるのだろう。
わたしは、大学時代にほとんどひきこもり状態だった。その時のわたしの時間は止まっていたのだと思う。しかし、部活には参加していた。その時は、周りに引っ張られ時間は動きだしていた。
時間の交差点で相対的に生み出される時間のスピード。止まることもまた、相対性の産物。時間を見誤らないように、時の流れに身をまかせよう!
昔の人たちが感じる時間と、現代人の日本人が感じる時間とは、昔の人たちがゆったりと感じると推測します。
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