痛みとともに生きるということ

先日,痛みの研究会でお話しさせていただく機会をいただきました.大変貴重な機会となり,たくさん考えるきっかけをいただきました.質問いただいたことも,もう一度自分の臨床を振り返るきっかけとなりました.こころから感謝いたします.そのときのことを振り返りながら,痛みとともに生きるうえで考えたことを書き留めておこうと思います.まだまだ,まとまっておらず,道半ばといったところですが・・・.

今回のテーマは,「痛みをも抱えるということ -Mindfulnessの可能性-」でした.
マインドフルネスについて,脳科学,生理学,哲学,社会学,心理学,医学の視点から文献レビューをさせていただき,少しでしたが体験もおこなっていただきました.

また,いい機会でしたので,マインドフルネス作業療法(MBOT)についてもご紹介させていただきました.もちろん,MBOTの基盤は,作業療法です.しかし,作業療法にマインドフルネスの概念を導入することで,より身体性や作業に浸るということを意識することができます.からだやこころの痛みにより,日常生活を当たり前に送ることが難しくなった対象者に,作業の良さを感じていただけるようにすること,そこにマインドフルネス作業療法の意義があります.いわば,ウィルスバスターのようなものです.そう,ウィルスバスターですから,それ自体が何か生産的なものを生み出すわけではありません.ただ,からだやこころに痛みを負うことで,生きることに困難さを抱え自暴自棄になり,自分の人生を諦めようとしているひと,そんな状態は周囲のひととの摩擦を生み,その摩擦はさらにその人を傷つける・・・,そんな悪循環に呑み込まれ苦しむひと,その状態から生還するためにマインドフルネス作業療法は活かされるのです.作業は人を元気にする!!,でも,痛みに苦しみ,対人関係に傷ついたひとは,「どうせできるわけない」「やっぱりできなかった」「やっても,意味がない」などと作業によってさらに傷つき,苦悩の渦に取り込まれることとなる・・・.作業を,あるがままに作業をそのまま感じ取り,それに浸ることができる.それが,ウィルスバスターの役割です.

痛みを受け入れる,そして痛みをも抱えるということ.それは,痛みを対峙する存在としてのみ認識するのではなく,痛みすらも自分の一部としてしっかりと受け入れること.そう,痛みすら自分を構成する大切な要素の一部なのではないでしょうか.

「死にたい」痛みは時に,ひとから生きる希望を奪うことすらあります.しかし,生きてるから苦悩があります.生きていたいから,痛みが苦悩となるのでしょう.ここに,ひとの生きることの難しさがあります.生きるということは奇跡といえます.しかし,生きているということは必然であるともいえます.生きていることを,そして生かされるていることを受け入れる,そして,痛みの存在すらも受け入れていく,そこに痛みの意味が見いだされてくるのではないでしょうか.

「死にたい」というひとは,死ぬほどつらいのであるし,死にたいと思うほど苦しいと理解できます.「死にたい」とは多くの場合「楽になりたい」ということだと思います.誰もが,苦悩をもたらす痛みから解放されたい,そんな風に思います.そんな状況に自分があることを,今,その痛みが教えてくれているのです.

そんな状況の中,それでも痛みに立ち向かっているそのひとに何を感じますか?
そんなに頑張っている,そのひとに何を感じますか?どう声をかけますか??

痛みに教えてもらうことは多いような気がします.痛みについて聴く,痛みの種類,質,量,長さ,それに伴う感情や思考,周りのひとの反応,そんな痛みにまつわる諸々を丁寧に教えてもらいます.すると,そのひとのひととなりが少し見えてきます.そのひとの努力や生き様,哲学,信念や関心,今の立場や役割,感情や思考,様々なことに思いを馳せ,そのひとの苦しみのほんの一部でも,自分の身体を通して感じられたとき,その瞬間にわたしは本当の意味でそのひとの前に存在できたといえるのではないでしょうか.

そんな痛みには,波があります.どんな思いにも,感情にも,下痢の時に感じる腹痛にも,夜中にズンズンと痛み苦しめる歯痛でさえも,諸行無常というように,この世にあるものはすべて移ろい変わるのです.痛みには,波があります.この痛みも,いつかは楽になります.この世の終わりをもたらすと思うほどの痛みも,その山を越えれば少しは楽になります.反対に,今少し楽になっても,生きている限りは,次の痛みの波が必ずやってくるのだともいえるでしょう.普段,我慢できているのに耐えられなくなっている.辛抱できなくなっていることに気づいたとき,それはきっとそのひとの中で何かが起こっているときなのでしょう.そのことを,痛みが教えてくれているのだと思います.痛みと語らってみること,痛みのメッセージを自分自身の声として捉えてみること.そんな取り組みには意味がありそうでしょうか?

痛みは,強烈な刺激をわたしたちにもたらします.当事者である本人はもちろん,その周囲のひとにもいろいろな影響をもたらします.痛みにこどもがなくと親はオロオロします.それでも泣き止まず,親のこころの器をこどもの苦痛が上回った時,親のこころをイライラが襲います.デットボールを受けたプロ野球選手が痛みによってうずくまった時,ファンは固唾をのんで見守ります.そして,それはやがて相手選手への怒りとなって野次を生み出すのです.戦争においては顕著です.からだやこころの痛みは,世界の在り方を変えてしまうほどの強烈な力を生み出すのです.なぜなら,ここまでお話ししてきたように,痛みはわたしたちの「命」に密接にかかわっているからといえるでしょう.

わたしたちは,ひとりでは生きられません.わたしは,だれかのおかげで生きていますし,わたしが生きていることはほかのだれかが生きる支えになっています.すべては,「縁」によってつながっています.わたしは,わたしに拘っては生きていけません.わたしから自由になること,それがわたしがわたしらしく,本当の意味で「あるがまま」に生きることにつながるのかもしれません.きっと,痛みもおんなじでしょう.痛みにこだわることは,わたしに拘ることと一緒です.痛みにこだわることは,わたしに拘り,その結果として,わたしを周りから切り離し,縁を断ち切ってしまう.いわば,生きながらにして死んだような存在にしてしまう・・・.そんな不幸をにつながりかねません.それを防ぐために,痛みやわたしという執着から自由になること,マインドフルネスやマインドフルネス作業療法の可能性が,そこに見出されるように考えています.

痛みや生きることに苦しみ,苦悩に脅かされながら,それでも歯を食いしばり耐えて踏ん張っている,しかし傷つき,悲しんでいる,そんなひとが,何とか希望の光を見出されるようになること.そのお役に立てれば幸いです.痛みをしっかりと見つめ続けていきたいものです.

1 件のコメント :

  1. 痛みは、必要なものですが、度を超すと、ダメですね。時に、「うつ」や「行動制限」や「すべての行為に影響する」もので厄介です。特に、慢性疼痛は薬が効きにくい。
     心理と的状況と「痛み」の関係。私は「脊髄損傷患者の麻痺域の耐え難い痛み」と「自己催眠」を使ったシングルケースデザインで第1回四国OT学会で発表しました。効果ありですね。
     マインドフルネスは、痛みや言動に大きく影響を及ぼします。・・・この続きは、また、書きます。 大西

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