実存と縁

 のどの痛みを感じながら,投稿論文を封筒に詰めました.さて,この原稿がどうなるのか?少しでも,日常生活をおくるうえで困っているひとや「生きる」ということに苦しんでいるひとの助けになれば嬉しいのですが・・・.そして,それを支える作業療法の発展につながるものであってほしい,命がけで協力してくださった,あのひととの約束を果たしたい,そう思っています.

 ところで,最近の京極先生や桐田さんのblog記事での議論が熱く,おもしろく感じています.ざっと,このような流れになっていますが,作業の意味を考えるうえで大きなヒントとなること間違いなしです!!(笑)
  1. 手段と目的,そしてそれ自体(織田)
  2. 底の底にあるのは「現象」(京極先生)
  3. 現象と構造(桐田さん)
  4. メルロポンティと作業療法(京極先生)
  5. 作業と、教育(桐田さん)
わたしの「それ自体」ということから始まった作業への志向は,メルロ=ポンティの哲学による考察を経て,デューイの教育哲学に到達したところで「それ自体」に戻ってきています.なにより「作業」の良さを再認識でき,作業とひとと世界(社会)の関係性が解き明かされていくのです.わたし自身が全部理解できているのかは,甚だ不安ですが,とても面白い記事に触れることができ,もうけた気分です(笑)
 また,愛媛の大西先生もコメントをいただきました.先生とは直接お会いしたときに,お話しするのが楽しみです(笑)

 そのような皆様の思考に触発されて,少し書いてみたくなりました.話の内容は変わるのかもしれませんが,関係性について考えたことを書いてみようと思います.

「それ自体」の作業と出会うためには,「自由」である必要があるのだと思います.ある価値観にとらわれていると,「目的」や「手段」のための作業という日常的な活動というレベルの作業との出会いはあるものの,「それ自体」とは出会えなくなります.
 例えば,今,私が感じているのどの痛みは,痛みという言葉によってイメージされる「私の頭の中ののどの痛み(のイメージ≒経験の積み重ねによる産物)」に置き換わって,「それ自体」とは違うものになります.
 また,あなたの前に真っ赤に色づいた紅葉が広がっていたとします.あなたは,一瞬こころが躍るのを感じながら「あっ,紅葉だ!!」と口から言葉を発するでしょう.それは,自然の流れです.あなたが,紅葉に呑み込まれるように紅葉を感じ,こころが動くと同時に言葉が飛び出す.しかし,あなたの口から(あなたの中から)言葉がこぼれおちた,その瞬間にあなたの目の前に広がる紅葉「それ自体」は,紅葉という言葉につながるあなたの頭の中の紅葉のイメージに切り替わり,あなたはもうそれ以上,紅葉「それ自体」を感じ取り,それに身を浸すことはなくなってしまいます.
 そもそも,紅葉を見るということ(行為)に,「紅葉を見て癒されたい」とか,「もう葉が色づいているのか確かめよう」とか,「デートで紅葉を見に行きたい」とか,「紅葉を家族に見せてあげたい」とか,目的や手段が強すぎると,頭の中のイメージの紅葉にすでに置き換わってしまう可能性があります.

 とはいえ,わたしたちは,普段いろいろなことを選択しながら主体的に生きています.もちろん,そうしないと生きていけないのですから仕方ないのです.そして,主体的に生きるということは,世界をコントロールするということと似ています.わたしたちは,主体的に行動することで,世界と対峙し,それをコントロールしながら,生きやすいようにしてきたのです.狩猟採取から栽培へと変わり,狩りや祈りの延長の踊りや身体運動が,スポーツやダンスに変わり,山を切り開き道を作り,トンネルを掘り,ついには地上から離れ空を飛ぶようになるなど科学技術の発達などをみても,主体的に生き,イメージを現実で表現するように,世界をコントロールしていることがわかるでしょう.

 わたしは,「目的」や「手段」をもって行為を行うことを否定しているのではありません.むしろ,いきているうえでは,それを否定できようがありません.

 しかし,一方で,「目的」や「手段」は価値を産むのです.「こうあるべきだ」とか,「こうしたい」とか,「こうでなければならない」とか,「これが正しい」とか,「すべて間違っている」とか・・・.「いい悪い」「好き嫌い」「正しい間違い」などと断定し,判断してしまうのです・・・.そう,ちょうど今,わたしがのどの痛みをネガティブなものとして,なくさねばならない,あってはならないものとして,対峙しているように・・・.

 わたしたちが,もしそれから自由になりたいと思えばどうすればいいのでしょう?

 1つの方法を提案するのならば,「それ自体」に身を浸してみてはいかがでしょうか?「わたしが」という主語をいったん置いといて,関係性に身を浸すのです.それは,どうするのか?

 わたしは,「縁」を感じることがそれにつながるのではないかと思っています.わたしのなかに痛みが現れてきたのも「縁」です.「それ自体」をそのまま感じてみます.すると,不思議なことに,嫌な感じだけではない感覚が湧き上がってきます.痛みだけではない,感覚が湧き上がってくるし,それは常に一定でもなく,同じものでもないのです.一瞬,一瞬,「それ自体」とわたしは出会い,「それ自体」に出会うことで,わたしが形成され,「それ自体」によりわたしが変化する.それは,「縁」によってもたらされる.

 その一瞬,一瞬に,身を任せてみませんか?「縁」に身をゆだねてみませんか?そして,一瞬,一瞬の「それ自体」にのみこまれてみませんか?

 紅葉を美しいと思い,それがもたらす,からだの反応をそのまま受け入れ,こころの動きに身を任せる.一瞬,一瞬の紅葉との出会いに,それがもたらす変化をそのまま感じる.主体を手放し,「縁」のままにそこにあるわたし.

 普段とは違う「自由」があなたを包むでしょう.まだ,うまく言葉にできませんが,そんな感覚をわたしは今,ここで,味わっています(笑)


(追記)
 銀河鉄道の夜の蠍の気付き・・・.許しと自由を手に入れた蠍は何を感じたのでしょうか??単なる自己犠牲ではない,主体性の果てに「縁」に身を任せるということ.そのヒントを,蠍の物語に感じました.宮沢賢治は,どんな作業を通して,どんな世界を見ていたのでしょうか?

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