あいまいなわたしとちゃんとした自分

リレー記事が続いております.ひと段落かなと思いましたが,やっぱり触発されましたので書きたいなと思います(笑)
いつも長くなってしまうので,今度は短くまとめようと思いますが,どうなることやら・・・.
さて,桐田さんは「尊重とは何か」という記事で「原因帰属理論」という理論を紹介されています.それを受けて,京極先生は『「尊重とは何か」とはどういうことか』という記事で,以下のように書かれています.

   尊重とは、表に現れている態度とおそらくその背後にあるであろう事柄も含めて配慮するこ
  とだ、ということなんでしょうね。
   たぶん、人はそう扱われると尊重されたと感じてしまう。

これは,素晴らしい気付きだと思いました.これは,桐田さんが「現象と構造」という記事で指摘された「態度」についての議論から生まれたものでした.桐田さんは,「現象と構造」で「態度」について,

   しかし原理的に考えるなら、おそらく尊重され重視されているのは自己や他者、世界や行動に
  相対する各人の「態度」(attitude)である。その意味でぼくは、各人の態度を尊重するために、メ
  ルロー=ポンティの行動構造論から考えることを勝手ながらお勧めするものである。尊重されて
  いるものは底の底というより、おそらくは「ドア」なのだ。

と説明されています.ひとが世界に向けている「態度」(attitude)が,世界をとらえる(形作る)その視点につながるというふうにわたしは理解しています.これは,先のわたしのブログでもふれましたが,これは大変重要な指摘であると思いました.その「態度」をいかに尊重するのか?が信念対立から自由になるためには求められるのだと思います.そのことについて桐田さんは,「尊重とは何か」で次のように述べられています.以下長くなりますが,引用させていただきます.

   他者の経験を「尊重する」ということは、①他者に帰属させている志向的経験を改める態度、
  ②他者に帰属させている志向的経験を「保留」する態度を選択するということを意味するとい
  えよう。

   わかりやすくいうと、前者は、他者の振る舞いや言動に即して「そうか、この人はこの出来事
  を、このように経験している(いた)のだ」と考え、後者はそのように帰属させた経験を保留し「い
  や、この人はこの出来事を、あのように経験している(いた)のかもしれない」と考えることを選ぶ
  ということだ。

   つまり、信念対立の解明において重視されているものは、他者に対する特定の志向性の無
  自覚な「帰属」を保留しつつ、他者に即して改めようとする「態度」なのである。この「帰属の改
  定と保留」こそ、他者の経験をぼくたちに開示させてくれる当のものであり、ぼくの理解では、こ
  の態度が「尊重」の本質である。

   「あの人にも何らかの立ち現れがあったのだろう」という言葉は、あの人が経験しているかもし
  れない内容や、その経験によって培われたかもしれない「態度」を、空欄のまま、あるいはカッコ
  に入れて、つまり「保留」して、その人に「帰属」させることで成立している。

   そこには隠れた前提としての文化的習慣、いわば「尊重的態度」があるのだ。

ここに書いてある「態度」をとることができれば,そういう「現象」に向かう「態度」がとれれば,信念対立から自由になれるのだと,なんだかワクワクしながら読みました.わたしは,この「態度」について読んだ時に,attitudinal healingをイメージしました.(attitudinal healingに関しては,水島広子先生の著書「恐れを手放す」やアテテューディナル ヒーリング ジャパンのホームページをご覧ください)ここでは,自分の前に立ち現われる現象をプロセスと理解して,それに対する自分の態度を選択していくということを行います.信念対立解明アプローチでいう「解明態度」と非常によく似た「態度」やそれに基づくプロセスだと思いました.これは,桐田さんのご指摘の「帰属の改定と保留」ということとつながるし,その「態度」の基盤が桐田さんの指摘になるのだと思います.

しかし,その「態度」は,ときに桐田さんのエンド記事「危険な尊重」で示された

   人間関係での信念対立に対してメタな立場に立つと、自分だけが俯瞰的な立場に立ってい
  ると誤解したり、相手の心(信念)を勝手に規定したりしてしまいやすい(だからこそ、自覚的に
  解明態度を養う必要がある)。そのようなとき、相手は自分が対等な人間として尊重されていな
  いと感じるだろう。

ということを生み出してしまいます.これは不幸です.

尊重ということは,ひとの「態度」です.これは,「ひと」に対しても,「もの」に対しても起こります.「もの」に対する尊重は,価値を生み出します.戦国大名は,茶器を尊重するあまり,戦争にまで発展した歴史があります.究極の信念対立ですね・・・.それは,茶器そのもの,「それ自体」に対する尊重から起こったのでしょうか?現代に生きるわたしにははかり知ることはできませんが,戦国武将は茶器にいのちをかけていたことは事実であるようです.きっと,茶器にステータスを感じ,それに自分を投影し,そこに同一化することで,価値観のあいまいな時代に,自分自身の価値を確認するすべとしていたのではないか,と勝手に推理しています.

これは,きっと「ひと」でも同じでしょう.自分が出会った他者を尊重する.素晴らしいことであると思います.しかし,それが自己を投影し,同一化するための対象とする「態度」で尊重しているのであれば,他者にとってそれほど息苦しいことはありません.なにせ,他者は自分自身の存在が相手によって否定されるのですから・・・.これでは,自分が尊重しているつもりでしかありません.

自分が他者やものと出会うとき,本当の意味で尊重するということは,どういうことなのでしょうか?

わたしの結論は「よくわからない」ということです.ただ一つ感じるのは,「わたし」はそんなに強くないということです.わたしは,世界に対する「態度」を持っていますが,これはきわめてあいまいなもので,いろんな「縁」の影響を受けています.また「態度」によってわたしのなかに浮かび上がる感情もさまざまなもので,とても一つに規定できません.「わたし」はあいまいな存在なのです.だから,きっと「態度」もあいまいでしかありません.

ただ,そんなわたしも「それ自体」と出会う際には,わたしの輪郭が時折見えてきます.あいまいな「わたし」は,「ひと」や「もの」,そして「現象」,そのもの「それ自体」を感じた際に,わたしと出会える,そんな気がします.

例えば,今,わたしの目の前にはペットボトルの水があります.その水が今,わたしの目の前にあるまでに経験してきた歴史を感じてみます.これは,近所のスーパーでこどもにねだられた妻が買ったものです.スーパーの店員さんが棚に並べたのでしょう.ほかのだれかも,手にしたのかもしれません.それでも買われず,また棚に返されたのかもしれません.スーパーに来るまでには誰かが,トラックに載せて運んできたのでしょう.きっと,ペットボトルは段ボールに入れられて,トラックの荷台に積まれていたはずです.どこから来たのか?きっと,揺られてきたはずです.ペットボトルに入ったのは,工場ででしょう.多分機械から,一気に流し込まれたのでしょう.その機械は,誰かの手によって操作されていたはずです.それは,ある水源地から工場に運ばれたものでしょう.誰かが水源地から工場に運んだのでしょう.もしかしたら水源地から工場までパイプラインがあるのかもしれません.しかし,それも誰かが設置したものでしょう.そして,その水は,いつかの雨によってこの地上へやってきたのでしょう.そう考えると,今わたしのこの前にある水か,こうしてわたしの前にあることは,「奇跡」であるように感じます.そして多くのひとの「思い」もそこに感じます.この「縁」に感謝します.そうして,水を感じ,それを口に含みます.ほのかに広がる感触に身を浸します.ここに今ある「もの」(水),「それ自体」と出会うとき,わたしは「それ自体」を通して,「わたし」のからだやこころ,そしてわたし自身の「いのち」を感じるのです.

わたしは,あいまいなものです.自分はこうだ,と決めつけずに,それ自体と出会ってみませんか?「それ」と出会った際に,自分の中の「それ」のイメージに「もの」を置き換え「価値」により形作るのではなく,「それ自体」との出会いを楽しめる「わたし」でいませんか?そういう「態度」についてきっとこれまでのリレー記事で書かれていたのだと理解しています.

あーあ.やっぱり長くなってしまいました・・・.
最後まで,わたしのあいまいな内容のこの記事に,お付き合いいただきありがとうございます.

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