解決,解明,それに続く抱えるということ

 昨日の記事,抱えられるということ―留めておける力―で,問題に対処する「解決」,その問題に対して根本を明らかにし問題が成立しなくする「解明」,それに次ぐ方法である「抱える」ということを提案しました.
 昨日も述べたが,「解決」や「解明」は確かに有効な手段ではあるのですが,一方で「こころ」がついてこないことも多いように見受けられます.分かっちゃいるけどやめられないというものがそれに当たります.このこころがついてこないというのは本当に厄介で,それに苦しむことも多いというのは,経験的にも理解できるのではないでしょうか.「じゃあ,受け入れればいいやん」という意見もあるでしょうが,受け入れられないから「こころ」がついてこないのです.
 自分が悪いのは分かっているのに謝れないとき,意地を張らないでいると人間関係がうまくいくのは分かっているのについカッとしてしまうとき,「二人の関係はこうなっているよね」と指摘されて「そうだな」と思うのになんだか腑に落ちないとき,状況や現象が自分の希望通りにならないとき,…そんなときにこころはついてきません.それを無理やり飲み込もうとしても,どうしてもできないのです.頭では認識できていて分かっているのに,感情が許してくれません,身体の状態が変化し,反応が出て,それでも何とかと思ったら…,できない自分を…,そうして深く傷ついてしまいます.葛藤も多い.
 そんなときにはどうするのか?
 それが,「抱える」という方法です.最近「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」という言葉に出会いました.これは,「答えが出ない難しい状況や現象に対して解決や解明を急ぐわけではなくその事態に耐える力」と言われているもので,イギリスの詩人John Keatsが弟たちに送った手紙に出てくる言葉です.Keatsは,このデガティブ・ケイパビリティをシェイクスピアに見出したということです.詳しくは下記の帚木蓮生先生の本をご参照ください.




 僕は,「抱える」ということは,その状況をその状況のまま感じ取りその状況にひたるということであると考えています.先の本では,Keatsのネガティブ・ケイパビリティという言葉がBionによって再発見されたことを指摘しています.そのうえで,Bionの「No Remember , No Desire , No Understanding:記憶なく,欲望なく,理解なく」を例に挙げてネガティブ・ケイパビリティとは何かについて説明されています.わたしも,精神分析学会や症例検討会に参加したときにBionのこの言葉に強くひかれたことを思い出します.解決や解明はもちろん大切ですが,物事の本質を感じるまで早々に判断しわかった気にならないこと,そうしてこれはこうだと過去のデータや知識によって決めつけないこと,なによりこうあるべきだなどと自分の理想や価値観に向かって状況や現象を思い通りにコントロールしようとしない(しすぎない)ことが重要であるともいます.まさに,Bionの言葉通りです.わたしがそれを再発見したのは,弁証法的行動療法(DBT)に,そしてMindfulnessに出会ってからでした.あるがままに感じ,それをそのまま受け入れるというその姿勢は,解決,そして解明に次ぐ第三の方法になるのではないかと感じており,そこに希望を見出しています.抱える中で,状況は変化するし,その状況や現象に浸る中で,物事の本質を捉えることにつながり,その結果より深い解明につながる,より根本的な解決につながるのではないかと思うのです.言葉にならない思いは,その感覚のまま抱いておく,そのうち言葉が自分の中に浮かび上がってきて,その言葉で自分の経験を自分で気づき,自分の中に取り込んでいく.そういった過程を大切にしたいなと思っています.では,具体的にどうやっていくといいのか?それはまた明日.

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