MBOTから考える経験とはだれのものか?

 OBP2.0を展開されている寺岡さんや京極先生は,作業=経験と定義されています.これは,先行研究から抽出されたもので,#らいすた での講義によると,作業療法の設計図の元となった哲学の影響を受けているそうです.(詳しくは #らいマガ を)

 ひとは,作業=経験を通して,学び知識を獲得し身体能力を向上させることで生きるための活動を可能にします.また,同時に人間関係を構築し,自己(自分らしさ)を形成していきます.ひとは,作業=経験をとおして,いのちを紡ぎ,かけがえのない自分を手に入れるという,作業=経験的存在であるのです.

 ですから,作業療法とは,作業=経験を対象にするのだということが分かります.そして,その作業=経験がもたらす意味(価値)とは,構造構成学的に考えるとそのひと(たち)の関心(欲望)やその時の状況(契機)などに影響されるのでしょう.

 先の文の中で,わたしは,ひと(たち)と述べました.それは,作業=経験とは,必ずしも個人のものだけではないと考えるからです.

 もしかしたら,皆様は,その論考に「経験とは,個人が感じるものでしょう?」そのような疑問を抱かれるかもしれません.確かに,経験とは極めて個人的なものであると考えられます.作業を行うのは,主体である個人であり,そこからの情報をインプットし,統合し知覚し,言語化するのは個人の内的なプロセスであるといえるでしょう.誰にも見えないし,誰も代わりに経験できないオンリーワンのものなのでしょう.

 例えば,マインドフルネス作業療法(MBOT)でも,個人が体験した感覚やそれに伴う経験は,「それ自体がすべて」であると考えています.主体の経験する極めて個人的なプロセスだと考えるのです.そして,それ自体をそのまま受け入れるようになっています.

 では,作業=経験とは,個人だけに適用するものなのでしょうか?

 作業=経験が,個人にしか適用されない者であるならば,時に極めて独我論的なものに陥る可能性を生みます.しかし,独我論的に自己中心的な世界理解では,世界の全貌はつかめなくなってしまいます.自分の認識外は存在しなくなるし,自分の価値以外のものは認められなくなります.それは,「ありのまま」という自己愛の世界ともいうことができるのです.

 これを克服するために,MBOT(MBOTの核であるマインドフルネススキル)では,断定や価値判断を一旦停止し,対象となる自分の感覚(知覚)それ自体をそのまま感じるように促します.自動的に与えられる関心(欲望)やその時の状況(契機)による価値を一旦停止することで,独我論的危機を回避するようにプログラミングされているのです.すなわち,なにかに囚われずに,自由に「今」を経験できるようになるのです.

 それと同時に,「ひととつながること」も重視されます.わたしたちは,1人でいろんなことを経験するのですが,それは誰かとのつながりの中で「縁」のなかで立ち現れてくるという前提がMBOTにはあるのです.1人で経験するその作業の体験は,1人では決してできないものなのです.例えば,絵画をする際にも,一緒にMBOTプログラムをする仲間,作業療法士がいます.それだけではなく,目の前にある,紙,絵の具,筆,水,すべてに誰かの手が加わり,なんらかの現象が関わっています.その関係性=縁のの中で,わたしたちは生きているのです.

 そう考えると,作業=経験は,わたしのものですが,縁の産物ともいうことができます.すなわち,作業=経験の主語に広がりが考えられるのです.それにより,わたしたちは独我論的に陥ることを回避します.ありのままから,あるがままになるのです.

 MBOTをはじめとした作業療法には,このような作業の持つ力を活かしていくシステムが備わっているのではないかと考えています.


 http://toumaswitch.com/vaster2/

0 件のコメント :

コメントを投稿