現象と態度,そして縁,わたしを形作るもの

高知は,ひどい雨です.今も,激しい雨粒が,窓にたたきつけられています.そして,わたしはブログを書いています.そんな夜だから,きっとここに文章が残るのでしょう.ちょっと,いや,かなり意味不明ですね(笑)

ところで,リレー記事がどんどん進んでいます.100m×4くらいの短距離走かなと思ったら,400m×4,いやいや,いつの間にかそれを越えて,箱根駅伝くらいになっているような気がします.京極先生も桐田さんも,筆舌鋭く,本質に迫ってくるので,わたしもひとりの読者として楽しませていただいています.世の中には,こんな走りができるひとがいるのだと思うと,何だか嬉しくなってきますね~(笑)

今までの記事の流れです.

  • 手段と目的,そしてそれ自体(織田)
  • 底の底にあるのは「現象」(京極先生)
  • 現象と構造(桐田さん)
  • メルロポンティと作業療法(京極先生)
  • 作業と、教育(桐田さん)
  • 実存と縁(織田)
  • 【厳選】根源から作業療法を理解するための哲学書10冊(京極先生)
  • 芸術教育:哲学的実践論として(桐田さん)
  • 実用的には現象でも態度でも(京極先生)
  • 何のためにそれ自体に身をゆだねるのか(京極先生

  • 1話完結として興味があるものだけ読んでいただいてもよいと思いますし,関心がある方は始めから連続で読んでいただいてもよいと思います.

    ところで,わたしは前回のブログ実存と縁で「縁」に注目しました.そして,「その一瞬,一瞬に,身を任せてみませんか?「縁」に身をゆだねてみませんか?そして,一瞬,一瞬の「それ自体」にのみこまれてみませんか?」と提案しました.

    このことに関して,京極先生が何のためにそれ自体に身をゆだねるのかというブログの中で,明快に解説してくださっています.以下引用です.

      縁はぼくたちが自分の意志でコントロールできるものではありません
      むしろ、向こうからやってくるようなところがあります。
      それ自体は、ぼくたちが認識したとたん、そうでなくなってしまいがちです。
      ぼくたちはすぐ「〜だと思う」「〜したい」「〜すべき」「〜が良い」などとラベリングしちゃいますか 
     らね。
      それ自体は、ぼくたちが存在に気づくとスルリと抜けおちてしまう。
      だからこそ、あえて縁ととらえることで、ぼくたちがコントロールしようとするのではなく、それに身
     をゆだねてみましょうよと提案しているのだろうと思いました。


    そして,そうする意義に関して,

      理由は、それ自体に身をゆだねることが、病で苦しんでいる人を癒せる可能性があるからで
     す。
      それをマインドフルネスやマインドフルネス作業療法と呼んだりしますが、ぼくたちの研究を含
     めていろんな先行研究がその可能性を示唆しています。
      それ自体とは感じるままに感じることです(ぼくはそれを現象と表現しています)。
      縁に身をゆだねることで、それ自体に身を浸す(現象を味わう)。
      それを感覚的に受けとってもらいたい。
      上記の議論にはそういう意図があるように、ぼくは思う。
      そして、そういう臨床のあり方が、作業療法の本来の可能性のひとつじゃなのかな。

    と簡潔にまとめ,解説してくださっています.興味がある方は,ぜひ,ご一読ください.

    わたしの理解では,わたしのいう「それ自体」は京極先生の「現象」と同じものだと考えています.そうすると,桐田さんが現象と構造で主張された「態度」が重要になると気づかされました.以下引用です.

      しかし原理的に考えるなら、おそらく尊重され重視されているのは自己や他者、世界や行動に
     相対する各人の「態度」(attitude)である。

    これは,非常に重要な議論だと思いました.まだまだ理解が追い付いていないところもありますが,京極先生と桐田さんのやりとりは興味深いので,作業というものについて深めたい方はご一読されることをお勧めします.

    わたしの理解では「現象」とは,触媒のようなものであると思います.それ自体は変化しないが,他の物質の化学反応(の反応速度)に影響するもの,それが触媒です.現象は,それ自体として,存在するものです.それに出会ったときに,どう感じ,どう受け取るのか?それは,そのひとの「態度」によって決まるのだと思います.

    その意味において,「態度」というドアは,重要ですね.わたしという主体が,色眼鏡で現象を見ていたら・・・.もし,目をつむっていたら・・・.京極先生が実用的には現象でも態度でもでおっしゃる通り,実践的にはかなり重要な視点であると思います.しかし,一方で,「態度」に注目するのは,かなりの主体性を要求される気がします.われわれは,特に一般の日本人は,そこまで主体的に自分の態度を決めていないような気がします.これは,わたしの個人的な感覚でしかありませんが・・・.

    近年では,確かに「こだわり」が,称賛されるように,ある一定の態度を自分で選択し,それを貫くことは美学であるように受け入れられています.むしろ,ある一定の態度に固執することは,推奨されつつあります.しかし,一方で,「空気を読む」などのように,場の雰囲気に態度をゆだねることも重視されます.ただ,最近では,その「空気を読む」ことは苦悩の種となることも多く,ネガティブなものとなっているようですが・・・.

    では,なぜ,「空気を読む」という態度が,ネガティブなものを主体であるわたしにもたらすのでしょうか??

    それは,わたしが,わたしのなかにわたしを探しすぎているからのような気がします.わたしが,わたしを引き受けすぎている,というか,わたしがわたしに「執着」しすぎている,そのような感じがしているのですが,わたしだけでしょうか?一時期から,アイデンティティというものが注目されています.わたしとは?自分探し?などが流行ったこともあります.周囲との関係性を保つために,わたしの存在理由を私の中に求めてしまう・・・.

    例えば,精神科の臨床において,統合失調症と診断された昔の患者さんは,「わたしは天皇系の血筋だ!」とか,「私が世界の王だ!!」とか,「わたしは神だ!!世界を救う」とか,曼荼羅を描きそこに宇宙の理を記すとか,宇宙と交信するとか,そんな妄想を持たれていました.しかし,今はそのような方にお会いすることはほとんどなく,「周りが私を監視している」とか,「テレビが自分の情報を流している」とか,「近所の人が自分の悪口を言っているとか」という妄想になっている感じがします.このように,昔は社会に対しての責任,つながりというような背景からの妄想であったように思えますが,今はもてあます自分自身への周囲の目からの不安(≒社会とのつながりの希薄さからの孤独≒自己への執着)という背景からの妄想であるように思えます.

    そして,その自己への執着こそが,わたしを苦しめている,苦悩の源泉なのではないかと考えています.(きっと,そう考えるのは,織田自身が,その自己への執着に親和性があるからなのでしょうが・・・)

    だから,京極先生の説明のように,自分への執着を一旦置いておいて,現象そのものに浸ることで,癒しにつながるのではないかと考えています.

    ではどうするのか?

    わたしは,その現象と態度を結びつけるものが「縁」だと考えています.だからこそ,昨日のブログ実存と縁につながるのです.

    その一瞬,一瞬に,身を任せてみませんか?「縁」に身をゆだねてみませんか?そして,一瞬,一瞬の「それ自体」にのみこまれてみませんか?

    いかに自由な「態度」を手に入れるか?ということは,自分が「態度」から如何に自由になるか?ということにつながるのかなと思います.「縁」をかみしめ,自分への執着からも脱出する.宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の蠍の話の中で以下のように書いています.

    むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附みつかって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命げて遁げたけどとうとういたちにおさえられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりはおぼれはじめたのよ。そのときさそりは斯う云っておいのりしたというの、
     ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちにれてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなのさいわいのために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。        (宮沢賢治 銀河鉄道の夜) ※下線は筆者による

    一生懸命逃げたこと,生きるために必死になったことを蠍は悔いていません.蠍は縁から切り離し自己に執着しつづけた結果,「むなしく命を捨てる」ことに悔いています.このように,われわれが,生きるために作業を行うことは,あたりまえのことですし,大切な命の営みです.一方で,こだわりすぎて,自由さを失い,生きながらにして命がむなしくなっている,そんなことがないように,「縁」ななかで,それに身をゆだねながら生きる,それもまた人生だと感じている今日この頃です.
     



    1 件のコメント :

    1. 私は、「縁」という言葉は、奥行があり好きな考え方です。「流れに」身をゆだね、その流れで生じた「縁」を大切に、活かすことが人生航路の極意と思っています。
       ひとは、期待と現実とのギャップの大きさにストレスを受ける傾向は、認めます。「あるがまま」を受け入れる実存主義のような考え方は、重要ですし、これがキャップを埋める、思考法のテクニックではないかと思っています。「縁」はひととの運命の「流れ」と思います。

       私は、超越瞑想をしだして、約25年でその体験から意見を述べます。

       超越瞑想では、「それ自体」を「純粋意識」と読んでいると思います。純粋意識は、純粋意識に注意を向ける消えていきます。織田先生のいわれる「それ自体」は純粋意識の手前に存在する「無心・忘我」状態と解釈します。どちらも、脳波ではアルファー波が出現し、「悟り」の状態に近い、脳の活動状況と考えています。
       「それ」とともにあるときは、あるいは、その近くにいけば、こころが満たされた状態「マインドフルネス」であり、こころに大きなゆとりが生まれます。
       生活の中で、この状態になるための方法論を模索中で、作業療法の中でどのように利用するかを考え中です。・・・
       以上、個人的な意見で文献的引用ありません。

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