1.ひとは「自由」な社会を求めている
近代以降,人類の歴史は「自由」を獲得するための闘いによって築かれたものであるともいえます.この先人達の尽力の上に今の「自由」が成り立っています.では,なぜひとは「自由」を求めたのでしょうか.それは,ひとが根本的に「自由」を欲しているからだといえます.誰もができることなら「思うがままにいきたい」と思っているだろうし,「やりたいことをやりたい」と思うだろうし,「ひとからどう思われようがしたいことをしたい」と思うものでしょう.そうだとすると,「自由」こそが社会の基盤となるべきものとなるでしょう.
2.自由の最大公約数
ひとは「自由」であることを保障されたからといって,何でもかんでも自分のやりたい放題できるわけではありません.なぜなら,ひとは個では生きられず,他者と協力し共存していく必要があるからです.他者と共に生きる中で,自分の自由のみの行使は,他者の自由を損なう可能性があります.そういった意味では,自由を社会的において最大限に実現し享受するためには、他者との関係性が重要になるといえるでしょう.
3.共同体の意味
豊かな時代にはひとは個でも生きられたのかもしれません.食物を採取し,洞窟など天然の資源を住居にし,身近なもので寒さをしのいでいた時代には,ひとは個でも生きられる可能性が高かったのだろうと予想されるからです.しかし,時代変遷とともに自然からの恵みが豊かな時代が変化し,また自然災害や他の生物による生命の危機に対応するために,ひとは集団を形成することになりました.そして共同体における生命維持に成功した人類は,その共同体を発展させ,役割分担を行うことで効率化をはかり,「個」から「すること」を奪い「自由」から束縛することで発展を遂げてきました.こうして,共同体は,生きるために必要なものから,生産性を高めるため効率化をはかるためへとシフトチェンジしていきました.もちろん今でも生命維持の目的は底の部分にはありますが,表層部分には生産性の向上や効率化という目的が浮かび上がり覆うようになってきているように思います.この共同体の1つの形として社会があります.
4.社会と自由の在り方
先のも述べたとおり,ひとは「個」では生きていきません.ですから,「自由」を「社会」とどう調和せていくのかというのが重要になります.その際に、調和をはかるため、社会を主体として「社会にあわせて生きなさい」と社会に適応することを求めるタイプとひとを主体として「生きやすい寛容な社会を実現しよう」とインクルーシブな社会を目指すタイプが選択肢としてあるように見受けられます。しかし,現代社会においてこの2つが対立することが多く,社会を2分するような争いに発展している場面を見ることもあり,こころが痛みます.どうちらも,いい社会,生きやすい安心して暮らせる社会を構築しようと目指してているのに争い,相手の攻撃するにまで発展することは哀しみに耐えません.
5.適応とインクルージョンのその先に
このような中で,大切なのは選択だけでも判断だけでも勿論排除でもなく「調和」だと思います.ひとは「自由」であることを欲しています.しかし,ひとは生きていないと「自由」を享受できません.そして,生存のためには「共同体」が必要となります.ですから,ひとの「自由」を相互承認できるくらいの適応は重要となるでしょう.
一方で,ひとの「自由」を剥奪したり制限するような社会はそもそもの存在意義を取り違えて,誰かの欲望(生産性,効率化)によって絶対化されているように思います.こうして,対立は激化し,問題は転換し先鋭化するのではないでしょうか.
それを乗り越えるために,インクルージョンという視点が注目されています.「個」を尊重し共同体として一体化できるようにする試みです.「個」が「個」としてその個性を持ったまま「共同体」に参加するというこの理念は,「自由」の尊重といった意味でも重要でしょう.これを,生産性や効率化の見地から,単なる多様化認めるといった「ダイバーシティ」としてしまえば,それは「排除の排除」という表層の展開となってしまいます.インクルージョンでも,方法論だけが先走り,誰かのための生産性や効率性という視点から共同体への貢献度が主体になってしまうと.その効果がひとを苦しめることになりかねません.
では,どうすればいいのか.
このような問題を考える際には,主語(主体)の範囲がポイントとなると思います.「わたし」なのか,「あなた」なのか,「わたしたち」なのか,「あなたたち」なのか,「かれら(かのじょら)」なのか,「これ」「それ」「あれ」「これら」「あれら」「それら」なのか,時に主語をぼかすのか,曖昧なまま「このあたり」「そのあたり」「あのあたり」なのか(曖昧なままというのは日本古来で特徴的なものであると思います.大切にしたいものです.),その事態がどの範囲のものに対してのものなのかを考え把握することが重要でしょう.そうすることで,主体と客体の関係性が浮かび上がってきます.そこを把握すれば,インクルージョンは進むでしょう.また,ダイバーシティであっても,その限界を踏まえて効果的に取り組めるようになることでしょう.
では,インクルーシブな社会のその先には何があるのでしょうか.これはもう想像でしかないのですが,生産性や効率性という現存の社会基準を超えた新たな価値を持つ社会があるのではないだろうかと思っています.
そして,そのためには,主体や客体の明確化を超えた、主体や客体の入れ替わりや主体や客体の合一化といった日本古来の共同体や個の捉え方の視点が再構築されるのではないかと期待しています.そうすることで,個と社会が調和という形でなじむような気がしています.最大限の「自由」の保障とその相互承認が,今の社会の枠組みを越えた新たな価値を生み出す突破口になるのではないでしょうか.
6.まとめ
ひとは「自由」を求める存在といえます.しかし,ひとは1人では生きることができません.ですから,社会を形成し,その中で自由を相互承認しながら調和することが必要になります.一方で,「調和」を強調しすぎて「適応」ばかり求めると,ひとの(自由の)ためであった共同体が,共同体が主体となりひとの「自由」を奪い,ひとを苦しめることになります.だからこそ,主語を明確にして主体と客体を明確にする必要があります.そしてそれを超えた新しい価値を創造するためには(日本古来の特徴的な文化である)主体と客体との入れ替わりや主体と客体との合一化という視点がポイントになるのではないかと考えます.そういった意味で,現存の社会制度の枠組みにとらわれない「自由」さが重要となるでしょう.
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