ところが,わたしたちは,「わかる」ことで,様々なものを失ってもきました.例えば,自然科学の分野の研究が進み,わからなかったことがわかることになり,あたりまえの常識的知識になったことで,わからないままに自然と対峙してきたときに抱いていた,畏れや認識を越えた偉大さなどから生まれる畏敬の念といった思いを失ってきています.昔は,闇があった.闇は,恐怖の対象であり,一方でそれにより好奇心や冒険心がくすぐられた.闇夜に,または月が雲に隠れ闇が広がったその時に,物語は生まれてきました.そこには,無限の可能性と創造性があったのです.
科学もそうでしょう.現在の「わかったこと」の先にある「わからにこと」に研究の活力を見出します.そこに可能性と創造性のオリジナリティを求めるのです.だからこそ,自由がそこにはあります.
わたしたちの認識のクセは,あるものが「わかった」と思ったら,それ以上そのものについて観察しないという特徴があります.例えば,今日は桃の節句.桃の花が目の前に咲いていて,「あっ,桃だ!」と認識した瞬間にわたしたちの脳は,自分の中にある桃の花のイメージに切り替わってしまい,それ以上その桃について認識しようとしないという特徴を持っているのです.すなわち,わかった(わかってしまった??)瞬間に,わたしたちは自分自身の中にある(過去の経験によって培われた)イメージにとらわれ,今目の前にあるそのもの自体をそのまま感じる自由を失ってしまうのです.目の前の桃の花は「今,ここに」咲いているし,わたしたちは「今,ここに」生きているのにです.
「わかること」は自由を失うこと.「わかる」という体験をしたのならば,それは過去のこと.今を生きるわたしたちにとって,「わかる」を過去に置いておき,今を生きることこそが「自由」でいるヒントなのではないか?そんな風に思いました.
でも,きっとそれも過去のこと.新しい気づきとの出会いに向けて,今を生きましょう.「わからない」今を・・・.(笑)
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