信念対立の形式

 土曜日は,キングコング仲地さんのお話を聞きに中庄へ.茶屋町から河本先生の車に乗せてもらうために茶屋町までJRで移動しました.研修くらい,1人で行けよって??いやぁ~,1人で行くの怖かったんですもの….申し込みもしないままの飛び込み参加でしたから….やっぱり,仲地さんに会いたくなっちゃって(笑)河本先生,本当にありがとうございます.

 ところで,その移動中.宇野駅に向かって歩いている時にふと頭に浮かんできました.すでに,twitterでつぶやきましたが….

1.ふと気づいた。信念対立には2種類あるのかも。お互い、または一方が気付いている顕性の信念対立とまだ表に出ていないしかし構造は確認される不顕性の信念対立と。

 ⇒ 一般的に信念対立とは,疑いえないような確信された思い込みが対立した状態のことを指します.


 これには,個体間(2者以上)の信念対立と個人内の信念対立(取り込みによる信念対立)があるのではないかと考えています.これらは,気づいている状態の信念対立です.これらを顕性の信念対立と呼ぶことにします.
 それに対して,信念対立構造はあるものの,まだ当事者のお互い,または一方が気づいていない(意識していない)信念対立の状態も生活上経験することがあります.例えば,誰かと会うと知らず知らずのうちに気持ちが落ち着かない,感情が揺れる,疲れや体のだるさ,自律神経症状などの身体反応が出るといった時です.ひとは,自分を守るために防衛機制を持っています.そのパターンを取りやすいひとは,意識から信念対立を「隠す」ことが,自分自身の防衛機制,すなわち人生におけるサバイバルの手段として,そのひとのそれまでの人生においては有効であったのでしょう.
 知らない,気づいていない,触れないことで,関係性は維持され,微妙なバランスが成立します.例えば,家族関係でも文化の違う夫と妻,妻(夫)と姑(舅),親と子,父と娘など,文化が違う中でそれをぶつけ合わず,抑圧したり多様性を意識するように合理化したり,反動形成を行うこと(で自分を偽り),それにより対立は不顕化したまま対立構造のみ維持されるのでしょう.そのようなことがあるのではないかと考えました.


2.不顕性の信念対立は、信念対立化する可能性を有する構造を持つ予備軍と信念対立化しているが当事者が気づいていない信念対立群があるのでは?

⇒ この不顕性の信念対立には,大きく2種類あると考えています.
 麻雀に例えると信念対立の気付き(顕性の信念対立の発生)をアガリ(ロン)としたときに,信念対立の発生(不顕性および顕性の信念対立の発生)はテンパイ(リーチ:あと1枚でアガリ)となり,信念対立構造の成立(信念対立予備軍)はイーシャンテン(後2枚でアガリ)となります.すなわち,予備軍とは,ほぼほぼ信念対立の条件を満たす構造は個体間,または個人の内部に出来上がっているが,トリガーがない状態といえます.ロケットの発射カウントダウンという状態でしょうか.当事者の閾値待ちということになるのかもしれません.
 それに対して,不顕性の信念対立のもう一つの形.それは,先にも述べた信念対立は成立しているのですが,気づいていないような状態です.この時には,信念対立の構造は人間関係の微妙なバランスの内に隠されています.したがって,関係性よりも当事者個人にその歪み(ストレス)は影響するのではないかと考えられます.関係性を安定させるために個人が犠牲になるのです.

3.不顕性の信念対立は、目的が共有されているような共同幻視がそこに存在することで当事者には気づかないまま成立するのではないか?

⇒ ここまで,信念対立には顕性のものと不顕性のものがあること.不顕性のものには,予備軍と気付かれていない信念対立があります.ここで疑問が起こります.予備軍は,信念対立が現実的(対人関係や個人内等のなんらかの関係性内)に発生しているとは言えないため不顕性であることは当然であると思われます.では,なぜ「気付かない」という不顕性の信念対立が成立し,その状況が維持されるのでしょうか?
 結論から言うと,気づかれない信念対立が成立し維持されるのは,それが関係性(個体間や自己内)の中で自分を保つことにとって有利となるからでしょう.
 信念対立が顕性化することは,基本的に関係性を維持しがたくなるようなストレスを生み出します.これは,個体自体や関係性自体など幅広く影響がかかります.と同時に,その関係性が結ぶ集団(または個人内の心的機構)の機能を奪い,集団としての価値,意義をも失わせます.具体的に,医療チームの場合,チームを形成することで,より効率的にまたより大きなパワーを生み出すことを果たそうとしています.すなわち,個では出せない力や幅広いケアをチームに求めているのです.しかし,信念対立が発生すると,チームはうまく機能しません.信念対立による不毛な争いは,チームからすべてを奪うのです.このように,誰にとっても信念対立は存在しない方がいいのです!!
 ある目的があり,それを効率的に達成するためにチームが形成される.そのチームを阻害するのが信念対立である.だから,信念対立はない方がいい.この構図は,ある「目的」が強くなればなるほど強力に働くであろうことは想像に難くありません.
 もし,チームの成員全員が「こうあるべきだ」「こういうルールの中であるべきだ」「これが最も倫理的だ」などの共有する枠を「共同幻視」として強く持っている時には,チームというのが理想化され,その中で無言の枠組みが設定されます.その場合,信念対立というチームに対する共通の幻想(イメージ)を破壊する要素は,排除する対象となり,在ってはならない者となるのです.ここに,無意識的排除が成立します.気づかないままに,それを嫌悪し,排除するのです.チームの成員間で信念対立があるのに,それに気づかず,不顕化する.そういったチームがあります.もちろんこれは,取り込みにより,個人内にも設立する構造でしょう.フロイトは,『ヒステリー研究』で葛藤が抑圧される過程を明らかにしています.これも,不顕化された信念対立の一例とすることができるでしょう.
 では,不顕化された信念対立をどう見抜けばいいのか?
 それは,そのチームのパフォーマンスをアセスメントをすることです.特に,わたしの経験上は,時間の概念がそのチームで意識されているかということです.チームは目的を有して集まります.その目的が,時間内に達成できているのか?ということを量的な視点から,また質的な視点から振り返るのです.多くの場合,信念対立を抱えるチームはパフォーマンスが下がります.そのパフォーマンスの低下は,時間に表れやすくなります.そのような量的な客観情報に,それぞれの成員や集団としてのチームが持つ質的な情報を加味して評価することで不顕性の信念対立をあぶりだすことができるではないかと考えています.

 






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